電機メーカーに就職したいのだ

相変わらずソニーとか松下とか大好きですけど、
最近は「電機メーカー」にはあまりこだわっていません。
自動車業界もおもしろいし、広告とか、医療関係にも興味があります。
大学3年生です。
<< August 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | - | - | - |
年賀状2.0
郵政公社とは言ったものの、相変わらず既得権限だの独占だのいろいろあって黒猫さんが訴えるのも然るべきな状態の郵便屋さんですが、その最たるものが

「手紙」

です。いま、はがきもしくは小封筒を、郵便局以外から発送する人はどのくらいいるのでしょうか?ペリカンさんやクロネコさんはそのサイズの郵便物を、郵政公社と同じ価格帯で発送してくれるのかしらん?というかそもそも、取り扱いをしているのか。それすら知らないじゃん。



エプソン、キャノンの両者が同日に、家庭用プリンタおよび複合機の新商品ラインナップを発表しました。上位機種のデザインがやたらカッコイイ(自社リンク)、というのはさておき、これはもちろん年賀状戦線ってやつです。

しかし、しかしですよ。時代はweb2.0なのです。(←言ってて恥ずかしいけど) もはや紙媒体をお金を使って送るだの、印刷だのは環境保護の観点を取り出すまでもなく時代遅れ・・・・と決めつけるのもまた文化の衰退を招く馬鹿な若者みたいでいやなんだけどとりあえずここはそう言うことにして!・・・・だし、年賀状そのものに、一方的に送りつけるという「儀式」的な意味合いしか無いのはおそらく過去からずっと続いている事実。

ここにいまはやりのweb2.0的視点から、情報の共有だの、敷居を下げるだの、生産性だの、タグだの、いろいろつけた(すげー無理矢理w)新しい「年賀状」の形を模索するのはなかなかおもしろいんじゃないかと思いついたのであります。



よし、名前も「年賀状2.0」にしよう。



年賀状2.0は、新しい要素をたくさん包含しつつも、既存の年賀状の年賀状たる性質を一切失ってはいけません。絆っぽさ。一年に一度の節目っぽさ。暖かみ。「手書き」って要素。元旦に「届く」ってこと。送る相手を選ぶ、と言う要素も実はかなりのウェイトを占めている気がします。それは「手書き」の面倒さ故なのでしょうが。

その上で、「年賀状」という儀式に新しい意味を持たせたい。さぁさぁ、誰か一緒に考えてみない?


 +


プリンタメーカと郵政公社をつぶしたいとか考えてるわけではないけど、彼らは「紙媒体」という需要が将来的に消える可能性をどうとらえているのか、それには興味があります。とりあえず松浦亜弥(郵政公社)だの長澤まさみ(エプソン)だの、蒼井優に山田優(キャノン)だのといったそうそうたるメンツでCMを展開しているあたり、必死さは伝わってきますよね。
| AMANE | 考えたことメモ | comments(2) | trackbacks(3) |
[ブレスト] 新しいモバイル機器のスタイルを考える
現在主流の携帯電話の液晶画面サイズはおよそ2.4インチほどで、表示されるのは240*320ドット分。これはQVGAと呼ばれる画素数。表示される情報の量はインチ数ではなくてドット数による

>>画面解像度

一粒あたりの大きさを小さくすればするほど、同じ液晶サイズでも画素数を上げることが出来る。先日Vodafoneからシャープの904SHという端末が発売されましたが、この端末は2.4インチという従来と同じサイズのまま480*640ドット、VGAと呼ばれる画素数の液晶を搭載しています。縦横二倍ずつの画素数なので表示できる情報の量は4倍です。


しかしここまでくると、今度は人間の目の能力の方が問題になってくる。あまり文字が細かすぎても、正直読むのがしんどい。VGA液晶を搭載したといっても、僕らが読める文字の大きさはQVGAの時の文字の大きさでだいたい適当だと思う。そのかわりこの904SHでは、解像度の高い…つまり見た目のなめらかな…フォントで表示することが出来る。文字がやたらきれいに見えるのです。 もちろん、写真はかなりきれいに見える。とはいえ2.4インチ程度のままでは、「文字表示」のための装置という意味ではQVGAで事足りてしまっている感じがする。


かといって、単純に液晶画面を大きくできるかというとそういうわけにもいかない。現在日本の携帯電話は、「片手で握って、テンキーでメール入力が出来る」という制約に基づいて形状を決めているようです。ドコモのFOMAのSHシリーズやauの三洋の端末などはかなり大振りに見えるが、それでもその制約の範疇に収まっている。むしろ小型であることに価値を見いだす場合もある。sonyのpreminiシリーズなどは小型であるが故にサラリーマンや女性を中心に大人気だ。通話と、最低限のメールくらいが出来ればいいというユーザも多い。 今回はそういう要望はあえて無視することにして、とにかくモバイルでどこまで情報表示力をあげることが出来るかを考えてみたい。


携帯電話は「携帯電話」である以上、上記の制約から逃れることは出来ない、とすら言うことが出来る。それは、電話が「電話」をするデバイスである以上、手に持って、耳にスピーカを口にマイクをあてて使用するものだからです。「携帯」というワードがついているのは、「普段固定であるものの延長線上、発展形」という意味を持つ。手に持って使うデバイスのままで良いのなら、今の携帯電話の形状はもしかしたらベストかもしれない。


また、話が多少前後しますが、表示装置と入力装置は切っても切り離せない関係にあることも重要です。たとえ画面が大きくても文字の入力を携帯電話のテンキーでやっていたら入力速度はたかがしれていてそうじゃなくても疲れてしまうので画面の表示力を生かせるほどの文字を打ち込むようなことはなかなかしないでしょうし、逆に携帯電話にフルキーボードが付いていたとしても、見づらい小さな画面ではあまり意味がない。


そこで、この「表示装置」を考える上でまずに「モバイルデバイス」というものを根本的に新しく考案する必要があると考えました。携帯電話という思いこみに縛られてはいけない。しかし、私はPDAですら、大げさな感じがします。ノートPCなんか目立ちすぎます。たとえ今後技術の進歩で起動が早くなったり重量が軽くなったとしても、電車の中でさりげなく開くということを皆がするようになるでしょうか?


「携帯電話と同じくらい、体になじむこと、さりげないこと、大げさでないこと、専門的でなくても自然に使いこなせること」


が、「大衆に普及する」という点を考えると一番重要であると考えます。さらに考えなくてはいけないのは、そもそもその「モバイルデバイス」で何がしたいのか、何が出来るのか、でしょう。それが一番重要かもしれない。技術者的には「何がしたいか」に足を引っ張られることなく、新しい価値を自ら作り出して行かなくてはいけないわけですね。


web2.0という言葉もありますが、究極的に僕はは、モバイル機器は表示する装置と、入力する装置と、通信する装置だけになると考えます。処理、記録のすべてを通信先のコンピュータで行い、手元ではそれを表示し、操作するだけです。しかし、今それを考えるのは少し早すぎる気がします。通信速度、通信量への対応、通信の安全、データ保管の技術と倫理などなど、超えなければならない壁がたくさんあります。それにこれはあくまで、PCの機能をサーバ上に上げる、という意味でしかありません。今考えている「モバイル機器」とは多少離れている気がします。


それはともかく、「モバイルデバイス」の将来を考えるのはとても興味深いことです。楽しいなぁ。(どんな終わらせ方だ!)はじめは「モバイルの表示能力を上げる」という点から考え始めたのですが、やはりそれだけでは終わりませんね。僕にいま出来ることと言えば、「携帯電話と同等の機能を持った、携帯電話とは違う形状をしたデバイス」を考えることくらいでしょうか。機能は発展させなくても良いことにし、持ち運びの利便性を下げないままにしてどこまで入力をやりやすく、表示を大きく出来るか、なら、考えることが出来そうだし(多少考えはある)技術的にも可能で、意外と短期間で新しい商売になるかもしれません(笑)


 +


「攻殻機動隊」という漫画原作のアニメ作品があります。この物語の中では、人間は自分の脳の中身、人格すらもデータ化して、ネット上に存在させています。網膜に直接データを流し込んで視覚的に表示するので、解像度は無限大。音声とデータがシームレスに変換されるので、わかりやすく言えば、しゃべった内容をそのままメールにすることが出来ます。入力装置は「頭で想像すること」。頭の中で「googleで『小泉純一郎』で検索」と想像すれば、その検索結果が網膜に直接表示される、という具合です。


僕の想像しうる究極のモバイル環境はこれです。人格をデータ化してネットに存在させる『電脳化』はさすがに気持ち悪いしはなはだ夢物語だと思いますが、網膜にデータを直接表示させること、音声認識くらいなら、技術的には可能だし、倫理的にも問題ない感じがします。「頭に浮かべた内容を入力」は多少医学的倫理的に問題ありそうな気がしますね。
| AMANE | 考えたことメモ | comments(0) | trackbacks(5) |
[メモ] プロダクトデザインの視点
メンテナンスフリーという観点

事例1)
色指定。Y100。誰でも同じ色が選べるし、印刷もできる。フォントも作った。
(佐藤可士和、明治学院大学

事例2)
空港のイスの背中を格子状にデザインしていたのだが、「埃がたまって掃除が大変だろう」、と言う現場からの指摘で却下した、という話。
(川上元美、旭川空港




エコロジカルデザイン

事例3)
捨てるときのことを考える。リサイクルを促進するため材質ごとにばらせるように、デザインの段階で考慮する。


 +


プロダクトデザインをする人は、成形加工の技術もやはり知っているんだな、って実感。逆に、新しい技術から生まれる、既存のデザインの枠を越えた(形状という意味での)デザインもあり得るだろう。
| AMANE | 考えたことメモ | comments(0) | trackbacks(1) |
ディスプレイの外
偶然だけど必然のように、東京芸術大学の学園祭と凸版印刷のインターンに連続で参加してきました。

ディスプレイの外で見られる、触れられる、聴ける、感じられる形に表出させることの力って、やっぱすごいっておもった。


 +


藝祭では、学生の情熱が会場中に満ちあふれているのを感じた。1人1人が、作品そのものに触れて、作り上げているのだ。手を込めて。一つしかない。ディスプレイという表面と無感触の世界では絶対にできない表現であふれている。不確実の世界、ソフトウェアという形で形式化されない個人間の技術の差。伝統の技法、技法のかけ算、引き算。人間の歴史をかいま見る。


凸版印刷。一転して印刷物だ。大量生産の手段として生まれたはずの技術は、写真の誕生によってその意味を大きくふくらませた。印刷にしかできないレベルの表現がある。微妙な色彩、正確なライン、素材感。ディスプレイという小さい画面を越えた大きな世界、きわめて小さな世界の集合体。平面を越える。 感性と正確さを結ぶ技術。2つの赤を並べても、決して同じものではない。それを確実に再現する。


アナログの世界と言うと実際は印刷もDTPとかいてパソコンを介してはいるのだけど、現実に触れられるっていう意味でのアナログ。下手にデジタルになってしまうとそれはネットを飛ぶことができるという低次元に押し込められてしまう。ネットなんて所詮は限られた一メディアに過ぎないのだ。しかも歴史のない。「表現」という次元で話をすれば、まだ「フィルタ」つまり、遮るものとしての意味しか持っていないようにすら感じられてくる。


web2.0とかいって、敷居が下がったってことは絶対的正義かのように言われているけど、それは一方で、文化的に未成熟である証拠なんじゃないかとも。。。。(これについてはちょっと微妙だから保留。)ただ言えることは、僕は、何にしたって「プロ」が好きで、尊敬したいって思ってる。


 +


でもね。同時に。

コンピュータというか、デジタルの世界というか、ディスプレイそのものでも良いんだけど、あと100年とか、せめて写真と同じだけの歴史を積んだとき、どんな風に僕らの世界に存在してるのか、それもまた楽しみになってしまったわけです。そしてその礎を作るのはもしかしたら僕たちなんじゃないか?なんて考えてみるんだ。
| AMANE | 考えたことメモ | comments(0) | trackbacks(0) |
一言。
留年して、学科を変わることになりました。 希望の門出ってやつです。
PROFILE

大学2年生に逆戻りです・・・汗

夢は電機メーカーで商品開発すること!携帯電話とかポータブルオーディオプレイヤーとかに興味があります。最近は絵を描いたりベースを弾いたりしています。
LINKS
OTHERS